2014年9月7日日曜日

1923年の関東大震災で、「沼影部落はほぼ全壊し」ていた!

このブログでは、1923年の関東大震災
①六辻村の死者が浦和市域の半数以上を占めたこと
②沼影部落がほぼ全壊したこと
③当時の地図と人口の確認をして、現在の土地利用との違いを明らかにした上で、
この地域で防災上取るべき施策の提言をします。

①六辻村の死者が浦和市域の半数以上を占めた
六辻村は、ウィキペディアによれば「さいたま市辻、白幡、根岸、別所、文蔵、沼影(以上旧大字名)、神明(大字根岸字神明丸が由来)、南浦和4丁目(文蔵であった地区のうち京浜東北線以東の地区)」とあります。
さいたま市南区の、武蔵浦和駅(南区別所7丁目)と南浦和駅の二線間区を中心にした人口が集中した地区です。

「浦和市史」通史編Ⅲの620頁には浦和市域の被害状況のデータがあり、六辻村の死者数(13名)浦和市域の死者数(24名)の過半数を占めたことが分かります。

浦和市史 通史編Ⅲ 620頁


②沼影部落がほぼ全壊した
また、「浦和市史」通史編Ⅲ621ページの8~10行目に
「しかし、六辻村では総戸数673戸のうち全壊229戸、半壊171戸におよぶ甚大な被害をうけ、沼影部落はほぼ全壊し、(後略)」という記述が見られます。
六辻村で、関東大震災のときに約3分の1の家屋が全壊していたのです。

沼影」は、埼京線の武蔵浦和駅北戸田駅間の西側に見えるロッテ工場沼影市民プールなどがある、武蔵浦和駅からすぐの地区です。


浦和市史 通史編Ⅲ 621頁




③当時の地図と人口一覧より
関東大震災の9年前の地図を見ると、現在さいたま市浦和区になっている浦和町(黄色)の周辺が市街地として発展を遂げているのに対して、沼影(オレンジ)六辻村(水色)の文字の周辺には田んぼが土地の大部分を構成していることが分かります。

1914年(大正3年)

下の人口推移の一覧を見ると、
震災の3年前(大正9年)に六辻村の人口は浦和町3分の1程度
震災の7年後(昭和5年)には5分の1程度しかなかったことが分かります。

しかし、平成26年には、浦和区が152,154人で、南区が178,537人と逆転しています。

埼玉県史 通史編6 416ページより

次に、関東大震災のさいたま市内の死者数を一覧にしました。
これを見れば、どの場所に避難場所を集中すべきかは明らかなはずです。
しかし、このブログの指摘を受けて新たに設置された広域避難場所(11か所・区をまたがるものも)は、住宅地の死者が一人もいなかった大宮区に4カ所設置しているのに対して、多数の死者の出た南区や岩槻区にはわずか1ヶ所ずつしか設置されていません
しかも、南区の広域避難場所とされている浦和競馬場は、南区の中心となっている旧六辻村からは遠く、旧浦和町に近い場所にあります。


さいたま市 関東大震災(1923年)の死傷者数
旧市名旧市別死者数区ごとの死者数広域避難場所詳細
旧大宮市
31人
(住宅地では3人)
大宮区28人
(住宅地 0人)
国鉄大宮工場24人
山丸製紙工場4人
西区1人馬宮村1人
北区2人宮原村1人、大砂土村1人
見沼区0人なし
旧与野市0人中央区0人なし
旧浦和市
24人
浦和区3人浦和町
南区13人六辻村13人
緑区5人野田村4人、尾間木村1人
桜区1人大久保村1人
旧岩槻市21人岩槻区21人川通村8人
岩槻町5人,信和村5人
柏崎村1人,和土村1人,慈恩寺村1人
さいたま市合計76人
埼玉県合計217人
参考文献 「大宮市史」第四巻P.454,「与野市史」通史編下P.684,「浦和市史」通史編ⅢP.620,「岩槻市史」通史P.1095

④南区の防災対策への提言
①②③で書いてきたように、現在、南区の中心地となっている六辻村は、浦和市域で過半数以上の死者を出した、震災時の危険地域です。
ここに、現在は武蔵浦和駅と南浦和駅を中心にして、急速な人口集中が進んでいます。

では、この地域には、関東大震災の被害が集中したことを考慮した街づくりの工夫が施されているでしょうか?
さいたま市が、想定される被害に比例した避難場所づくりをしているとは思えません。

さいたま市は関東大震災などの教訓から積極的に学びながら、必要な場所に必要な規模の避難場所を設置して、市民の生命を守るべきです。






最後に、さいたま市の都市局概要より。


さいたま市都市計画課の武蔵浦和周辺の再開発計画においても、危険地域にもかかわらず避難場所は全く予定されていません。
そして、現在もこの危険地域に高層マンションが続々建設されています。